内部者・外部者の枠を超えて研究することはいかにして可能か

実践者・研究者・当事者として見えるものと見えないもの

· 大学院

最近、先住民、黒人、女性など当事者が自分の置かれているフィールドをリサーチすること、リサーチャーとなることについて読んで、色々と考えている。フィールドワークを行う研究者は、そのフィールド・現場を見せてもらう。場合によってはその現場に留まり、コミュニティの一人となって生活しながら研究を行うこともある。では、自分がすでにそのコミュニティの一員となっている場合や当事者である場合、そのフィールドの研究を行うことができるのか。できるのであれば、その利点と欠点はなにか(そもそもそんなものはあるのか?)

   いつものブログポストとは、すこし毛色が違うが、ここでは、外部の調査者として見えるもの、内部にいて見えなくなっていくもの、そして記憶と記録について考えてみたい。 

   日本語でも、近年「ポジショナリティ(positionality )」という言葉が一般的になってきた(?)が、これは、研究者・実践者・当事者等の「立ち位置」をいう。   私の研究のフィールドは、高齢者介護、介護職、移民、などである。研究しているという点で言えば、私は研究者という「外部者」であるが、スタッフとして働く「内部者」でもある。気づけばずいぶんと長く内部者として存在してしまった。そんな私は、私の働いているフィールドで研究を行うことはできるのか。もしくは内部者・当事者だけがわかることがあるのか?内部者・当事者のみしか発言を行なってはいけないのだろうか。 

  結論から言うと、私は内部者・当事者が研究・分析を行うことは可能であるし、むしろ望ましいことであると思っている。しかし同時に、研究者として気をつけなければいけない点はたくさんあるとも思っている。社会学者としての「外部」の視点と、生活者やコミュニティ「内部」の視点の両立、そして両者を生かした研究はどのように可能になるのだろうか。 

  私はカナダ・オンタリオ州の高齢者施設のスタッフとして働いている。そこでは興味深いことがたくさん起こっていて(ここでは詳細は省く。現場で何が起こっているのかということに興味のある方は、連載している「月刊ケアマネージメント」をご覧ください)、そのことについて調査したいと考えている。しかしながら内部者であり、外部者であることを両立するのは、とても難しいように感じることがある。 

  一つめの難しさは、内部から発言することの意味付け・価値を見出すことがいかにしてできるかという点である。中にいると、内部者として、この事象が社会的、また社会学的に価値のあることであるということをきちんと発信できるのか、ということに一抹の不安がよぎる時がある。Tuhiwai-Smith(1999)は、先住民についての研究においては、「先住民の研究者」 がコミュニティ内にいるにもかかわらず、外部の人が雇われることが多いことを指摘する。それは先住民研究者は「good enough(十分)」ではないと考えられているからだという(p.10)。 

また私の場合も、自分が経験していることや目撃していることは、ただの「サンプル1」であり、こんなことは、研究したり発表したりするには、取るに足りないことなのではないか、という疑問が生じるということもある。これに対して、Piper et. al (2019) は、先住民の研究・研究者の考察の中で、「研究者の伝統的なアウトサイダー(外部者)とインサイダー(内部者)の枠組み自体が、研究の植民地主義的な思考(西洋を中心とした世界で採用されている価値体系や認識論)に結びついているため」不備があると述べている(p.88)。 

内部者である自分と、外部者である自分は、特に質的調査では、重層的で複雑なものである(はずだ)。この内部者/外部者の枠組みを超えることが必要になる。それはどのように可能だろうか。 

  私は、自分の見ているもの、他者の発言した内容を「信じる」ということが必須となると感じている。「私の見ているもの」や、それが見えるようになるための「自分の感覚」、そして「対象者の話や行動」に価値を見出す、すなわち自分の視点に自信を持つという感覚が必要であると考える。 

  二つめの難しさは、「中からでは見えないものがあるのではないか」という疑念と恐怖にどう立ち向かうかという点である。Piper et. al (2019)は、先住民の研究者がしばしば「客観的ではない」とみなされる(p.88)と述べている。これは、Kleinman(1997)が説明するように、フィールドワークを経験する(「科学的」な「量的調査」に慣れている)学生たちが、「対象者」と交流することによって中立性を損なっているのではないかと恐怖することにも似ている(p.475)。フィールドワークの分析の際には、自分の「主観性」や対象者への「共感」が先立ち、「客観的」な事実を自分の解釈で都合のよいストーリーを作っていないかと感じる学生もいる(Kleinman,1997)。実際に私も「インタビュー時は、相手に同意してはならない」や「頷くこともしてはならない」「エスノグラフィー(参与観察)では、目立ってはならない。なるべく目立たないところで静かに観察する」など、こちらの影響を最小限に抑えるようにということを教えられたことがある。しかし、聞き手が能面のような表情で頷くこともないインタビューで、人はより詳細を話したり、本音や心情を吐露しようと思うだろうか?答えは否である。 

  これは「どのような研究においても完全なる客観性というものはないのだ」、ということを自覚することによって、克服されるべき感覚であると思う。よく「数字は嘘をつかない」というが、それは違う。私は計量調査も行うが、計量調査や統計であっても自分の仮説に近づけるような結果を導き出すことがいくらでも可能である。そもそも質問を作って、聞いているのは人間なのだから。 

  研究において完全な客観性や中立性はない、ということは今では一般的な理解であると思う(思いたい)。むしろ、そこで自覚し、明らかにしなければならないのは、自分の視点の「立ち位置・ポジショナリティ」であろう。 

  外部者の視点で見えるものと、内部の視点で見えるものは異なると私は思う。内部に入ってしばらく経つと、内部の価値観が当たり前になり、最初の頃に感じていたことを感じなくなったり、見えていたものが見えなくなるということがある。対象者との距離が近くなることによって、外部者としての視点が欠落することもある。 

  例えば、私はカナダの老人ホームで働いて4年半になる。最初に感じた違和感(カナダなのにスタッフも入居者もほぼ中国系の移民であること、入居者がフロアから出られないこと、大人数でのレクリエーションが多いこと、などなど他にもたくさん)は、今はあまり感じなくなってきている。 

 なぜ違和感を持たなくなったのだろうか。それは違和感を持ち続けていると、内部のスタッフとしては仕事がしづらいからだろう。(自分が変えられない)環境に違和感を持つことは、社会学者としては面白く興味深いことが発見できそうという意味で嬉しいが、スタッフとしてその気持ちを持ち続けることは、ストレスがかかる。そのストレスを持ちながら仕事をするのはしんどいのだ。自分のしんどさに向き合うことは大変なので、「仕方がない」「規則だから」「いつものこと」「ここではこれが普通」というふうに解釈し、自分の心が疲弊するのを防衛してしまうように思う。外部の視点や社会学者の視点を、無意識にではあるが、自ら捨てているとも言えるだろう。そして初めに感じていた、違和感や居心地の悪さなどの感覚をだんだんと忘れ、外部の視点を失っていく。 

 忘れてしまうのは悪いことなのか、ということはここでは深くは議論しない。ただ、私は認知症の方のケアをしていることもあり、忘れてしまうことが必ずしも悪いことだとは思わない。人間はすべてのことを覚えていることはできない。誰でも「些末なこと」は忘れる。私がまさにそうであるように、環境に適応することによって、人は過去に感じていた感覚を忘れていく。また辛いことを忘れることによって、生きることが楽になる人もいるだろう。さらに、認知症の方が、社会的な鎧を脱ぐことによって人間らしく魅力的になったりもする。ただ、ここで言えるのは、忘れても思い出すこともあるし、感覚的なものは残っていることが多いということだ。

例えば、昔の写真や映像をみて思い出したり、その時の感覚が蘇ってきたりすることがある。レクリエーションの中で昔の歌をうたったり、遊びをすることで感覚を思い出し、涙を流される人もいる。私はその方の過去を知らないし、その方が話すことが本当に「真実」だったかはわからない(そしてそれを確かめようとは思わない)。しかしその方の記憶に紐づいた「今の感情」というのは、少しはわかる。Behar(2020)は、質的調査の際の対象者と研究者の「感情」の大切さについて述べているが、私もその方が涙を流されたという事実と、そこで沸きあがった感情・語りを大切にしたいと思う。 

  私はすっかり内部者・実践者になってしまったかもしれないが、そうは言っても、社会学者でもあるから、外部者としての視点を持つことも忘れたくない。 内部者として忘れてしまうこと、見えなくなってしまうことに対する対策というのはあるのだろうか(もちろん外部者・研究者であっても忘れるのだが)。

それはきっと「今」の感覚を記録することではないのかと考える。このように書くと簡単だが、毎日の日常業務や起こったことだけでなく、その際に想起された自分の感覚と向き合うことが必要となる。それは、嬉しかったことでもあるかもしれないし、モヤモヤとした消化できない気持ちであるかもしれない。このような自分の違和感・気持ちをあえて探って記録していくことは難しいことだ。なぜなら「個人的な感情に左右されないというのが専門職である」という、暗黙の共通認識に反することになるかもしれないし、これまでの研究において良しとされてきた「客観的に事象を記録する」ことの対極にあるとも捉えられるからだ。 これが三つ目の困難だ。

 私は日記をつけることを10代後半でやめてしまった。それは自分の気持ちが書かれたものを後から見直すことがこっ恥ずかしかったからだ。当時の日記は、黒歴史としてすべて破って捨ててしまった。それから自分のことや、自分の気持ちを書くということはやってこなかった。 

  一方で、私はこれまで、対象者の感覚や語ることを大切にしてきた(少なくとも大切にしたいと思ってきた)という自負はある。 

 で、ここにきて社会学研究者として、自分の感覚を磨き、その感覚を手がかりに事象を調査・分析していくことの必要性に迫られている。実践者として、そして質的調査を(時々、量的調査も)行う研究者として、研究に完全な客観性がないことはわかっている。つまり、どこまでいっても、私は私でしかないので、内部者・外部者の枠を超えてしなやかに描きたいと願っている。 

 それには私が私自身(とその周囲)と向き合うことでしか可能にならないんだろうということが、やっとわかってきた。対象者の感覚と語ることだけでなく、自分の感覚に向き合う。多分、この過程に終わりはないのだろうし、歳を経ることによって感覚が鈍っていくということを、自覚して、訓練していくことが必要でもあると思う。10代の時にこっ恥ずかしくてやめてしまったことを、今、再開するときなのかもしれない。 

自分の感情に向き合い、記録していく。これを躊躇しつつも、今なら出来るだろうなと思っている理由は、このことが決して「目的」ではなく、私がフィールドを描くための「手段」となったからかもしれない。「手段」と捉え消化して、自分の感情と正面から向き合うことから逃げている(?)ことの良し悪しは今回は触れないでおく。

   研究者・実践者・当事者の皆さんは、内部・外部・実践者・研究者・当事者の関係性と、その枠を超えていくことについて、どうお考えになりますか? 

なお今回は内部者が研究することのみ考えた。外部者としてフィールドに入(らせてもら)って調査・研究することの暴力性については、またの機会に考察したい。

  Reference 

Behar, Ruth. 2020. “Read More, Write Less.” Pp. 47-53 in Writing Anthropology: Essays on Craft & Commitment, edited by Carole McGranahan. Durham, NC: Duke University Press. 

Kleinman, Sherryl, Martha Copp, and Karla Henderson. 1997. “Qualitatively Different: Teaching Fieldwork to Graduate Students.” Journal of Contemporary Ethnography 25(4):469-99. 

Piper, Daniel, Jacob Jacobe, Rose Yazzie, and Dolores Calderon. 2019. “Indigenous Methodologies in Graduate School.” Pp. 86-100 in Applying Indigenous Research Methodologies: Storying with Peoples and Communities, edited by Sweeney Windchief and Timothy San Pedro. Milton: Taylor & Francis. 

 Tuhiwai-Smith, Linda. 1999. “Introduction.” Pp. 1-18 in Decolonizing Methodologies: Research and Indigenous Peoples. Zed Books: London. comp