研究において自分の全体性を使うということについて 1

自分の「身体」を道具として使うということ

· 大学院

前回、「自分の感情に向き合い記録していくことによって、内部者としてコミュニティに馴染んでいくことで失っていく・忘れていく外部者としての自分の視点や感覚を覚えておきたい」という趣旨を述べた。私はそれを「外部者として研究するため」の「手段」としてとらえた。 

それを踏まえて今回は「外部者/内部者・研究者/当事者」の枠を越えて、研究者の「自分丸ごと(Whole Self)」として、その「感情」「身体性」を研究に使うということがどのようなことなのかをより深めて考えたい。 

なお、つらつらと書いていたら非常に長くなってしまったので3回に分ける。 

研究に中立性というのはない、客観性はないというのは、前回述べた。最近では論文でも本でも「I(私)」という一人称を使うことが推奨される(Ghdsee, 2016 p.23-30)(実際にはそうでないことも多いことをと追記しておく)。 

質的研究においては、フィールド調査やインタビューにで「自分の全体性を用いなさい(Bring Your Whole Self to Research)」ということは、よく言われることである(Hordge-Freeman, 2018, p.1)。

では自分の全体性を用いる、すなわち自分を丸ごと使うとはどのようなことなのだろうか。 

Blumer (1969)は質的研究者としての私たちの課題は、「感応する概念(sensitizing concepts)」を特定し、追求し、対象者の間の重要な関係を検討し、社会環境に関与して、独自の専門知識と感情的な経験を結集して、常に進化する「洞察(insight)」に近づけることであるとと述べる(Blumer, 1969 in Hordge-Freeman (2018, p.2)。 

Qualitative researchers challengeas they are "to identify and pursue 'sensitizing concepts,' examine thecritical relationships among our respondents, and engage with our social environments in ways that marshal our unique expertise and emotional experiences, to move our expertise and emotional experiences, to move us closer to constantly evolving 'insights'" (Blumer, 1969).

Hordge-Freeman (2018)はこれが可能になるのは「客観的事実」や「真実」ではなく、調査者の経験、観察そして感情を通じた世界の解釈であると述べるのである(2018, p.2-3)。 

例えば、黒人のフェミニストや批判理論を用いた研究者はsubjugated knowledge(従属化された知)やoppositional consciousness(対抗意識)という概念を使い、これまで学術の中で無視されがちだったり、周縁化されがちの「声」を拾い上げることをしてきた(p.2)。 

フーコー(1980)はsubjugated knowledge(従属化された知)を次のように述べる。 

タスクに不適切であったり、十分に精緻化されていないとして失格とされた一連の知識:ナイーブな知識であり、必要とされる認識や科学性のレベルよりも低い階層に位置しているとされる。 

 A whole set of knowledges that have been disqualified as inadequate to their task or insufficiently elaborated : naïve knowledges, located low down on the hierarchy, beneath the required level of cognition or scientificity. (81-82) 

Faucault, M. (1980). Power/Knowledge: Selected interviews and other writings, New York: Pantheon Press. 

先日書いた本で紹介したAOPの理論と実践も批判理論から始まったものなので、これまで無視されがちだったり、周縁化されがちの「声」を拾い上げ、その力関係を変えていくことの実践の一つと言える。

であるから、前回書いたように、「私の見ているもの」や、それが見えるようになるための「自分の感覚」、そして「対象者の話や行動」に価値を見出す、すなわち自分の視点に自信を持つという感覚が必要なのである。

これらの実践は、(これまで研究者として自分自身がマイノリティであったり内部者であるにもかかわらず)調査者として中立であることが重要であるとされ、自分の感情や対象者との心的な繋がりやコミュニティでの考えずに客観的であれ、とされてきたemotional distancing(対象やフィールドと心理的に距離を置くこと)とは相反することである (Charmaz, 2017b, Du Bois, 1917 in Hordge-Freeman, 2018)。 

むしろ研究者は「私」全体を使って「ツール」になるべきであると述べる(Hordge-Freeman, 2018)。これは自分自身を「道具」として使用するということであり、自分というレンズを通して見て・収集し・分析し・書くということである。 

ここで気をつけなければならないのは、調査者として「私」が調査や分析にどのような影響を及ぼしているのかということである。調査者として「私」に何が見えるのか、見えないのかに自覚的になるだけでなく、分析対象者は(私の場合は、日本人、アジア人、女、若年と中年の間、既婚者、有資格者などに属するであろう)「私」に何を開示し、どのように答え、それはもし他の人が研究をする場合にはどう違うのか、ということに意識的になるべきである(Hordge-Freeman, 2018 p.4)。 

例えば、こんなエピソードがある。

私が日本の大学院でTA(ティーチングアシスタント)をしていた時、部落についての研究をしている白人のアメリカ人の先生の話を聞く機会があった。その先生は「私が外国人であるから、部落のコミュニティの中に入っていけたし、聞けたことがあると思う」と言っていて、なるほど…と感じた。日本人(の見た目の人)にだったら、きっと開示しなかったことが、はっきりと異なる見た目である白人だからこそ、様々なことを開示し、話をしてくれたのではないか、ということだった。 

また自分の「身体」をツールとして使う例として、自分がどのように扱われるかということをヒントに、そのコミュニティに置かれている人々が置かれている立場を理解するのに役立つ、ということもある。例えば、ある社会における、女性・日本人・アジア人である自分への対応を振り返り、同じような見た目の人がその社会でどのような対応を受けているのかというヒントを得ることができる。 

ただし、調査研究において忘れてはならないのは、自分の存在や、自分がその人たちのことを調査し書く行為がその人々とコミュニティに対して負の影響(もっと言えば危害)を及ぼすものであってはならない、という大前提である。プライバシーへの配慮はもちろん、自分が研究者や外部者として関わることによるリスクなど、倫理的な側面に注意が必要がある。 

では、もう少し踏み込んで、調査や研究において、自分の「感情を使う」とはどういうことなのだろうか?

(2に続く)