研究において自分の全体性を使うということについて 2

「感情」を使うということ

· 大学院

前回は自分の身体を道具として使う、と言うことについて考えた。では「感情」を使うとはどういうことなのだろうか?

積極的に研究者が「感情」を使うという例で、Hordge-Freeman (2018)が提示することの1つは、対象者との関係性を作るために用いるということである。 

調査を行うには(ある程度の)信頼関係が必要であるということは自明であり、当然ながら、そこに何らかの「関係」があることが前提となる。「関係」とは文字通り、人と人との交わりであるから、そこには身体的関わりや何らかの感情の交換を含む 

例えば、調査対象者の話を聞いて「大変だなあ」「辛そうだな」「幸せそうだな」などと共感したり、共感することによって幸せな気持ちになったり、怒ったりという気持ちが湧き上がることは当然にある。さらに人によっては私のようにそのコミュニティの「内部者」として関わっている人もおり、自分ごととして、現場(フィールド)で、困難を感じたり、辛かったり、嬉しかったりもすることもある。

そのような対象者との気持ちの近さや、時にはある程度の感情のコントールなども用いて、信頼関係、信用、そして話しやすさなどを築いていく(Hordge-Freeman, 2018, p.7)。程度の違いこそあれ、基本的には、対象者との信頼関係ができ、開示してもらうことが可能になってこそ、対象者の様子・気持ちを鮮やかに描くことができるであろう。 

また分析の際に、自分の感情と向き合うということが必要となる場合もある。Hordge-Freeman (2018)は、ブラジル人の“adopted daughters”(家に住まわせるかわりに家事をさせる女性)のことを研究している際に、自分の中に湧いた「怒り」を分析し、乗り越えることで、単純な「善悪の関係」に落とし込むことなく分析ができたと述べる。自分の感情を無視することではなく、彼女たちを「救いたい」、悪を「懲らしめたい」という気持ちに向き合い、それを乗り越えることで、新しい質問が生まれ、新たなコーディング(質問の分析方法)が可能になったという。

この過程によってより詳細な分析をすることができたし、新たな発見があった(家族への愛情を語ることによって虐待行為を許している当事者の語りや、日常の中に抵抗があることなどを発見した)と述べている(Hordge-Freeman (2018, p.7) この研究について知りたい方はこちらをご覧ください。

しかしこれは、私には、自分の感情と向き合うことで「冷静になって見つめ直した」結果であるように思う。

自分の感情を冷静に分析することで、研究対象と距離をとることができ、分析できた、ということである。この場合は、自分の感情と対峙したことにはなるだろうが、「感情を使った」と積極的に言えるのだろうかということについては疑問が残る。 

研究における感情について考えることについて、もう一歩突っ込んで発言しているのが、Moussawi(2021)である。 

Moussawi(2021)は、フィールドワークや分析の際に湧き上がってくる自分の「悪感情(bad feeling)」と向き合うことによって、これまでの西洋中心主義のリサーチの方法に疑問を投げかける新たな理論を構築することができたと述べる。この西洋中心のリサーチ方法の例の一つは「直線型(linearity)」の方法論である。直線型の方法論は簡単にいうと、先行研究、仮説、観察、分析、結果の記述という順番で研究がなされるというものだ。しかし実際には、観察をしながらその瞬間に分析・解釈をしているし、また、分析しつつもフィールドに戻るし、書きながら再度分析をする場合もある。

西洋中心のリサーチ方法のもう一つの例は「理性と感情の間違った二項対立」である(Hordge-Freeman,2018)。これは「理性と感情は対立するもの」であって、研究や学術では理性に重点が置かれていると考えられているが、それが間違っているのだという。そもそも、フィールドの「対象者」を、大学や研究所の「研究者」が「調査し分析」するというその行為自体が、上から目線の行為であって、どうなんだ?!ということも言える。 

「悪感情」の話題に戻る。

Moussawi(2021)は、内戦中のレバノン、ベイルートでインタビュー・調査をするという壮絶な経験を通して、「分析は現場から離れたところで行われており、分析の過程では研究者と分析対象のフィールドは身体的な繋がりがない(disembodied)」と捉えることは間違っていると述べる。むしろそれは、研究者の特権を強調するだけであると強く批判する。 

分析の過程のおいて自分の「悪感情」(怒り・不安・恥・トラウマ)が発生し、くりかえし出現することに注目して、フィールドと研究者に身体的な繋がりがあることを明らかにする。そして自分の悪感情に向き合うことで、新たな発見と、方法論の革新性を見出すことができると述べる。 

例えば、Moussawi(2021)はレバノン出身である自分でも、危険が伴う現地では十分に調査ができない現実、地元なのに友人を置いてアメリカに戻る後ろめたさ、内部者であるが外部者でもあることによって、自分が不完全なものであるように感じたという、生活上・研究上の歯痒さを詳細に述べている。 

当初は、「自分の感情」と「研究内容」をまったく別のものとして捉え、自分の感情は、フィールドノートとは別の日記として記録にしていたという。しかし、研究の進捗状況の遅さやデータの少なさから、自分自身の不安やトラウマ、そして恥の気持ちがどのように研究に作用しているのか、ということに直面せざるを得なくなったという(Moussawi 2021, p.87)。自分の感情は横に置いておいて、データをとってそれを元に論文や本をかければよいという当初の計画は、脆くも崩れ去ってしまったのである。 

しかし上で述べたように、自分の感情に向き合うことによって、新たなリサーチクエッションが生まれ、また、新たな分析枠組みが生まれ、これまで想像していなかった理論化につながったと述べる(Moussawi 2021, 91)。

Moussawi は感情に向き合うことを避けることで見えなくなるものがあるだけでなく、恥、トラウマ、不満などの「悪感情」を省察することでしか見えてこないものがあるとも述べる(Moussawi 2021, 92-93)。そして、内部者として自分のトラウマから距離を取ることができない時にはどのように対処すればよいのか、ということも問うている。簡単に言ってしまうと「自分を責めるのではなくこの「悪感情」が「どこからやってくるのか」について深く考える必要があるという(Moussawi 2021, 93 

では、私の研究上の「悪感情(bad feeling)」とは何だろうか?

(3に続く)