フツウの生活を支えるのは難しい

子連れソーシャルワーク留学 in カナダ vol.104 ソーシャルワーク・タイムズ vol.175

· AOP,高齢者

7月1日はカナダデー。2017年は建国(独立)150周年ということで各地でイベントが行われ国全体がお祭り気分。一方で、先住民の方々による抗議の声も上がっているそうです。これまでの先住民に対する植民地主義的支配や、現在オンタリオ州で行われている先住民の土地へのパイプライン建設の抗議だそうです。カナダができる前からこの地に住んでいた人たちの声です。そんな中、トルドー首相自らオタワの国会議事堂の前に設置された抗議のティピ(テント)に入り先住民の方々と直接対話をしたそうです。

 

さて、話は変わりますが、最近「こんな夜更けにバナナかよ」(渡辺 一史著)という本を読みました。筋ジストロフィーである鹿野靖明さんと、亡くなるまでに関わった多くのボランティアの人たちを描いたノンフィクションです。鹿野さんは病気の進行とともに体が動かなくなり寝たきりとなり呼吸器をつけましたが、それでも「フツウ」の生活を希望され、自宅での生活を継続されました。

 

この本の中にボランティアの人が書いた記録として「『フツウ』の生活をするのは実はとても難しい」、というような記述が出てきます。

私も本当にそう思っています。皆さんにとってフツウの生活とはどんなものでしょうか。

 

「フツウの生活」が簡単にかなえられないような状態である人には、どのようにかかわっていったらよいのでしょうか。

 

たとえばカナダの高齢者施設に入所している方の中に「日本に帰りたい」と言われる方が(複数)います。日本の場合でも、病院や施設で「家に帰りたい」と言われる方が当てはまるかもしれません。

 

ご本人はもうすぐ100歳。ご家族は全員カナダにおり、認知症も進んでいて現実的に日本に帰ることは難しいでしょう。

その場はなんとかとりつくろって、その場をやり過ごす。スタッフである自分の気持ちも、「認知症の症状のひとつ」「不安の表出のひとつだから」などと、ごまかす。

 

そういうことを続けていると「ああ、切ないなあ。きついなあ」と感じて、心が消耗します。私は現在、ほぼ一人職場なので、適切にスーパーバイズしてくれる人がいたらいいのになあ、とも思います。

 

一方で「この切ない気持ちは大切だ」とも思います。施設での生活が私の当たり前になってはいけないと思うのです。ここの生活は「フツウ」なんかじゃなく、たぶん多くの人が自宅に帰りたい(日本に帰りたい)と願っていて、それを言わないだけなのですから。

 

介護はご本人に「振り回される」ことだと思っています。「あれが食べたい」「ここにいきたい」と言われれば、手に入るように努力したり、何とか行けるように手配したりします。カナダの施設でも日本食を提供したり、いっしょにおはぎやおいなりさんを作って食べたり。しかし「日本に帰りたい」は、いかんせん難しいです…。

 

いやー、いまさらですが一人職場ってキツイですね。何がきついって、自分でイベントや行事やレクを全部計画&実行したり(集団レク苦手なのに)、ケースに関して相談できる人がいなかったり、日本語ができるという理由だけで仕事の範囲外の相談を聞いたり、通訳をしたり。精神的に少しずつ少しづつ消耗していくのがわかります。

割り切って「私はここまでしかしません」としてしまえばいいのでしょうが、そういう性分でもなく…(たぶんソーシャルワーカー他、福祉にかかわる人ってそういう人が多いのでは)。

 

福祉の仕事は日常のフツウを支えるものだから、「成功」も「達成」も見えにくくて消耗しますが、それでいいのだと思います。そういうものであるから、自分のストレスは正常なのだ、と。

 

最近はセルフケアも大切だなと実感していて、ホットヨガに行ったり(汗の量がハンパないです!)、文章を書いたりして気分転換をはかっています。しかし、今朝、愛用のパソコンが壊れて大ショック…。無事に直って戻ってくることを祈っています。

 

お知らせ:日本社会福祉学会の学会誌に調査報告が掲載されました。カナダの事例紹介です。もし`お手元にございましたらご覧ください(ちょっと文章が読みにくくてすみません)。 二木泉「ソーシャルワークにおける反抑圧主義(AOP)の一端—カナダ・オンタリオ州の福祉組織の求人内容と組織理念を手がかりとして—」『社会福祉学』,Vol.58, No.1,pp.153-163,2017.

 

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